関ヶ原陣跡制覇ウォーキング出陣!

 そんなわけで9月28日(日)に行われた関ヶ原陣跡制覇ウォーキングに参加してきました。参加コースはもちろん一番長い制覇コース。桃配山周辺と南宮山を除く全ての陣跡を廻ってきました。(山内一豊陣跡は桃配山付近にあるので未踏破)

 

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 岡山烽火台では狼煙が上がっていました。

 

 関ヶ原に着き、参加費用1000円を払ってスタンプラリーカードの付いたコースマップとクリアファイルを渡され、そのまま各々で出発。行ったことのないところもあるから大丈夫かな……と思っていましたが、マップもあるし、案内表示も多いし、それ以前に参加者が最大1200人もいるので、少なくとも周囲に人がいなくなることもないと思いそのまま出発。

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 関ヶ原ふれあいセンターから出発し、まずは細川忠興陣跡へ。

 

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 あれ、私関ヶ原には5回位来てるけど、ここは初めてだ……。

 


 2番目、偉大なる軍師・二兵衛(竹中半兵衛黒田官兵衛)の息子たち、黒田長政と竹中重里の陣跡がある岡山烽火台へ。

 

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 ずいぶん遠回りするなと思ったら、大きい道路を横断するのは危険だから、地下道がある箇所まで誘導してたのね……。

 

 

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 3番目、スタート地点にほど近い徳川家康最後陣地。近くには西軍の首実検を行なった床几場があります。

 

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 そしてそのすぐそばにある田中吉政陣跡。ここのチェックはありませんでした。

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 5番目はおそらく駅から一番近い松平忠吉井伊直政陣跡(6番目)と、そのそばにある東首塚(5番目)。

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 こちら側から入ったのは初めて。

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 松平忠吉徳川家康の四男で、徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿。井伊直政はこの娘婿に箔をつけるため、先陣の福島正則を差し置いて西軍の主力である宇喜多秀家隊に発砲し、関ヶ原の戦いの火蓋を切っています。

 


 歩道橋を渡り、もう一人の徳川四天王本多忠勝陣跡へ(7番目)。

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 そこから長駆して藤堂高虎京極高知陣跡(8番目)。中学校の敷地内にあります。

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 京極高知淀君の妹、初の夫である京極高次の弟です。

 


 東軍の先陣を務めるはずだった福島正則の陣跡(9番目)。現在は春日神社になっています。その境内にそびえる樹齢800年の「月見の宮大杉」は関ヶ原合戦屏風にも描かれているものだとか。

 

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 ここで何故かバナナをもらいましたw

 
 10番目はかつての賤ヶ岳七本槍の最年長武将、脇坂安治の陣跡。東軍への内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていましたが、小早川隊が大谷隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させています。

 

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 ただし脇坂安治は、当初から東軍に与するつもりが、大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1,000名の兵を率いて西軍に付いたという事情もあり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵されています。

 


 11番目は当初松尾山頂に陣を敷いていた伊藤盛正を追い出して布陣した小早川秀秋の陣跡。松尾山頂には松尾城跡があります。結構アップダウンがきつかったです……。

 

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 木立が邪魔ですが、関ヶ原が一望できます。こんな特等席から主戦場を見下ろしていたら、たしかに東軍西軍どちらにつくか若い金吾くんは大いに迷うでしょうけど、ちょっと主戦場からは遠く離れてるような気が。

 

 ちょうどお昼時だったということもあり、皆さん眺めのいい場所に陣取ってお弁当を広げたりしていました。どうせなら南宮山でお弁当を食べたかった……。

 

 12番めは関ヶ原とは関係ないですが、常盤御前の塚&墓前。

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 私は常盤御前っててっきり関ヶ原関係者の正妻かと思っていたのですが、かの源義経の母親だったんですね。なぜここにチェックポイントを設けたのかがさっぱりわかりませんw

 

 13番目は徳川家康とも親しかった大谷吉継の陣跡と、松尾山展望地。

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 午前中は東軍の藤堂高虎京極高知両隊を相手に奮戦、午後は東軍に寝返った小早川秀秋隊を押し戻し、2,3回と繰り返し松尾山へと追い返すほどの獅子奮迅の活躍を見せた大谷吉継隊も、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の横槍により壊滅、大谷吉継も自害するに至りました。自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しましたが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂があり、実際に秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に死亡しています。

 

 14番目はその大谷吉継陵墓。

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 このお墓は東軍の藤堂高虎によって建立されたそうです。本来なら六文銭でもお供えしたかったんだが……。(大谷吉継の娘、竹林院は真田幸村の正室)

 

 15番目、平塚為広の碑。

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 16番目は西軍の主力である宇喜多秀家の陣跡。

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 関ヶ原敗戦後、秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩国島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われましたが、「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡され、駿河国久能山へ幽閉後、八丈島へ配流となっています。享年83。関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物で、このとき既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世でした。

 

 17番目、文禄・慶長の役の際、加藤清正と先陣を争ったことでも有名なキリシタン大名小西行長の陣跡。開戦地のすぐ近くにあります。

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 18番目はその関ヶ原合戦開戦地。

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 近くの畑に何故かヤギがいました。

 

 19番目、島津義弘陣跡。

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 家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じるものの、元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍への参戦を決意。

 しかし諸々あって戦意を失っていた島津隊は参陣こそすれ戦場で兵を動かそうとせず、小早川秀秋隊の裏切りによって西軍が壊滅・敗走を始めた結果、退路を遮断され敵中に孤立。伊勢街道からの撤退を目指して、捨て奸(すてかまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いて敵中突破を敢行、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らなどの多大な犠牲があったものの、義弘は立花宗茂らと合流し、共に海路から薩摩に逃れることができたそうです。

 

 20番目、決戦地。

 

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 東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれる場所です。

 

 そして最後のチェックポイント、笹尾山の石田三成陣跡。言わずもがなの西軍総大将、石田三成の陣跡です。

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f:id:psychicer:20140928152912j:plain ここからも関ヶ原一帯が一望でき、眺めはかなり良いです。

 

 

 イベント会場でゴールのスタンプを貰い、合わせてやぎ乳アイスをゲット。

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 これにて距離16㎞、所要時間6時間の関ヶ原陣跡制覇ウォーキング・制覇コース踏破完了です。最短コースではなく色々グルグル回ったため、疲れました……。

 

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 西軍所属の武将陣跡(いくつか例外有り)でもらったステッカー。

 

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 東軍所属の武将陣跡でもらったステッカー。

 

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 さすがにキツかったですが(特に松尾山)、来年もまた、参加してみたいです。