関ヶ原陣跡制覇ウォーキング参加してきました (9/24 関ヶ原) そにょ2

関ヶ原陣跡制覇ウォーキング参加してきました (9/24 関ヶ原) そにょ1の続き)

 

 そんなわけで。

 

 膝がほとんど曲がらない脚を引きずりながらアップダウンの激しい松尾山へ。待ってろ金吾!

 

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 途中休憩を挟みながら40分ほど掛けて松尾山山頂にある小早川秀秋陣跡に到着。ここが10番目の陣跡。もう私の膝下より高い土段とか何なの……こんな膝でよく登ってこれたな私……。

 

 写真なんか撮ってる余裕はなかったので、 途中経過はなしです。

 

 なんか灰が降ってきてるな……と思ったら、ここでも狼煙を上げておりました。わかったよ、内府。ボク、刑部の陣に吶喊するよ!

 

 小早川秀秋豊臣秀吉の正室・高台院の甥であり、れっきとした秀吉の親族。関ヶ原の戦いでは当初、15,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山に陣を敷いていた伊藤盛正を追い出してそこに布陣した。午前中こそ西軍優勢の戦場を傍観していたものの、秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣に攻めかかった。この離反によって連鎖的に脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を生じさせ、大谷吉継を討ち取った。

 これにより大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、東軍の勝利となった。

 

 

 こんな特等席から主戦場を見下ろしていたら、たしかに東軍西軍どちらにつくか若い金吾くんは大いに迷うでしょうけど、ちょっと主戦場からは遠く離れてるような気が。

 

 ちょうどお昼時だったということもあり、皆さん眺めのいい場所に陣取ってお弁当を広げたりしていました。どうせなら南宮山でお弁当を食べたかった……。

 

 

 さて、山を登ったら当然下りなくてはいけません。はっきり行って登りより下りのほうがつらいです。最初右膝だけだった痛みは左膝の方にもキてましたからね。

 

 もう恐る恐るといった感じでゆっくりと松尾山を下山。こんなんじゃ関ヶ原の戦い終わっちゃうよ!

 

 松尾山を無事下山してからもまたかなり大回りをして、次なるチェックポイントへ。

 

 とその前に。

 

  関ヶ原の戦いとは一切関係ありませんが。

   

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 常盤御前の墓前がチェックポイント兼休憩所になってました。

 

https://www.instagram.com/p/BZaMFxVHa7L/

昭和だねぇ……

 

 11番めの陣跡は大谷吉継陣跡。

 

 

  刑部様が見てる。

 

 会津征伐に向かう途中で石田三成の居城である佐和山城に立ち寄った大谷吉継は、ここで親友の石田三成に家康に対しての挙兵を持ちかけられた。これに対して吉継は「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した。

  関ヶ原では東軍の藤堂高虎京極高知両隊を相手に奮戦し、正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊15,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃してきたときも、初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力して、兵力で圧倒する小早川軍を2,3回と繰り返し山へ追い返す活躍を見せた。

 しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍し、大谷隊は防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。

 

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  隣には大谷吉継介錯し、その首を地中深くに埋めた湯浅五助の墓があります。大谷吉継の墓は合戦後間もなく藤堂家によって建立されたもので、湯浅五助の墓は、大正5年に五助の子孫によって建立されたもの。

 

 

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 平塚為広碑はコースから少し外れるうえに、チェックスタンプがなかったので、知る人ぞ知るポイントになってました。

 

 平塚為広は大谷吉継とともに石田三成に還元したが、聞き入れられずに西軍に与することになった武将。関ヶ原本戦では大谷吉継隊に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも孤軍奮闘したが、山内一豊の家臣樫井太兵衛に討たれた。碑は昭和15年9月15日に為広の子孫が建立したもの。

 

 12番めの陣跡は、西軍の主力である宇喜多秀家陣跡。

 

 

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  宇喜多秀家関ヶ原の戦いにおいて西軍主力(西軍の中では最大の17,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。

 関ヶ原敗戦後、秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩国島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われましたが、「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡され、駿河国久能山へ幽閉後、八丈島へ配流となっています。享年83(1572-1655)。関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物で、このとき既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世でした。(ちなみに関ヶ原合戦には参加していないが、真田信之は享年91(1566-1658)、松平忠輝は享年92(1592-1683)。当時の苦労人は結構長生きしてます。)

 

 13番目、文禄・慶長の役の際、加藤清正と先陣を争ったことでも有名なキリシタン大名小西行長の陣跡。開戦地のすぐ近くにあります。

 

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 小西行長は、秀吉の死後、寺沢広高とともに徳川家康の取次役を勤めるなど、むしろ家康との距離を近づけているが、家康による会津征伐に際しては上方への残留を命じられた。その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。

 9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れた。

 のちに市中引き回しの後、六条河原において石田三成安国寺恵瓊と共に斬首された。

 

 そしてそのすぐ近くにある関ヶ原古戦場開戦地。

 

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  開戦のきっかけは、通説では井伊直政松平忠吉らが物見と称して、福島隊の猛将可児才蔵を騙して宇喜多隊に発砲したとされていましたが、実際は霧の中での偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島正則体が宇喜多秀家隊に向けた銃撃戦。……この場所から最も近い場所に陣を構えていた小西行長は?

 

 そしてここから少し離れるものの、かろうじて見える範囲にある島津義弘陣跡。14番目。

 

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 家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じるものの、元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍への参戦を決意。

 しかし諸々あって戦意を失っていた島津隊は参陣こそすれ戦場で兵を動かそうとせず、小早川秀秋隊の裏切りによって西軍が壊滅・敗走を始めた結果、退路を遮断され敵中に孤立。伊勢街道からの撤退を目指して、捨て奸(すてかまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いて敵中突破を敢行、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らなどの多大な犠牲があったものの、義弘は立花宗茂らと合流し、共に海路から薩摩に逃れることができたそうです。

 

 いよいよゴールが近づいてきました。

 

  両軍合わせて15万とも云われる関ヶ原の戦いで、最大の激戦となったのがこの決戦地一帯です。

 

 そしてラスト、15番目の陣がある悪の巣窟笹尾山へ。

 

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 つかまた山に登らにゃあかんのか……石田三成が来い。

 

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 島左近陣跡はチェックポイントではありませんが……

 

 島左近は三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材で、関ヶ原前哨戦の杭瀬川の戦いでは明石全登隊と共に勝利したものの、その夜に島津義弘小西行長らと共に提案した夜襲は、三成に受け入れられずに終わった。

 関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立った。しかし正午過ぎ、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、敵の銃撃により討ち死した。

 最期の折の勇猛さ・狂気じみた左近の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となった。特に左近を討ち取った黒田長政軍の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれぇーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたとの俗説が伝わるほどである。いしだみつにゃんにしまさこにゃん……。

 

 そしてヒイコラ言いながら最後の力を振り絞って笹尾山の土段を登り(坂道より階段のほうがツラい)、ようやく山頂にある西軍総大将、石田三成陣跡へ。

 

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 やはり山の上は見晴らしがいいです。治部のくせに生意気だ。

 

 さて、登った山は下りなきゃいけません。膝が曲げにくいほどに痛いと、坂道より階段のほうがツラいんです。

 

 手すりにつかまりながらようやく土段を下りきると、麓では武将隊による演劇&演舞が行われてました。

 

 

 私が笹尾山についた十数分後に始まるというのは知ってたよでも演舞が全部終わってからこの脚で笹尾山を昇り降りしてたらゴール最終時間過ぎちゃうと思ったから先に笹尾山に登ったんだよもっとも全部見る気はなかったけどね。

 

 武将隊の演舞は久しぶりだったので、本当は最初からちゃんと見たかったのですが……。

 

 それはともかく、すべての陣跡を廻り終わり、ゴールのスタンプを押してもらいました。現在チェックシートが手元にないため、後ほど各チェックポイントで配布された千社札とともにアップロードします。

 

  

 まさかこんなことになるとは想像もしていませんでしたが、とにかく16km完歩することができました! とは言えこれで膝の痛みが消えるわけでもなく……。

 

 在来線では流石に座ることは出来ませんでしたが、名古屋からの新幹線は普通に指定席を取って座って寝ながら帰りました。階段の昇り降りが出来ずに、全てエスカレーターやエレベーターを使ったことは言うまでもありません。

 

 とはいえ久しぶりの関ヶ原陣跡制覇ウォーキング、楽しかったです。各武将の陣跡を線で結んだだけの、ウォーキングコースは進軍に関係なく説明も各陣跡に設置された文章だけですが、ウォーキングイベントとしては楽しかったです。

 

 あとはまあ普通に関ヶ原ウォーランドとか伊吹山、エコミュージアム関ヶ原関ヶ原鍾乳洞、桃配山や南宮山、不破の関にも行ってみたいです。駅から遠いですが。

 

https://www.instagram.com/p/BZaf8RqHLXI/

間違ってはいない

 

 

  

https://www.instagram.com/p/BZazKE_HIEV/

名古屋の駅弁、ひれ味噌かつ重いただきます

 

 

 

 来たる11月4日(土)に歴史タレントの小栗さくらさんが「小栗さくらの語りで巡る♪ 関ヶ原古戦場ウォーキング」というツアーのガイドをされるようです。さすがに関ヶ原陣跡制覇ウォーキングみたいに全部の陣跡を廻るわけではないですが、関ヶ原の戦いをストーリーを交えて語り、関ヶ原古戦場をガイドしてくれるそうなので、興味のある方は是非参加してみてください。私はもう予定があるので参加できませんが。

 

 その他10月14日・15日には関ヶ原合戦祭り2017が行われるようです。興味のある方は是非!

www.kanko-sekigahara.jp

 

 私はその日は静岡の臨済寺特別公開(年二回のみ)に行ってきます。

www.surugawan.net